仏像彫刻場(無形文化財2号)

仏像彫刻場(無形文化財2号) 大田市に住む仏像彫刻技能の保有者であるイ・ジンヒョンさんは、全国にある大小の寺院の仏像を彫刻することに関わっています。また仏教彫刻の形、比例、色彩など彫刻の技術を伝授、磨くことで、より良い作品を作っています。また、自分だけの独創的な創作活動に加え、伝授を目的として仏教彫刻院に力を注いでいます。 仏像彫刻場は、伝統的工芸技術として無形文化財に指定されました。

The Craftsman of Engraving a Buddhist statue

楽器匠人(太鼓づくりの職人)(無形文化財12号)

楽器匠人(太鼓づくりの職人) (無形文化財12号) キム・ガンシクさんは、忠清南道論山市彩雲面で30年もの間太鼓を製作していた祖父と、大田に引っ越して約50年間太鼓を製作していた父の後を継ぎました。3代目として太鼓づくりを受け継いでいます。キム・ガンシクさんは太鼓の音を決める革の選別、処理、筒の制作など、在来式の技法を所有しています。また、販売用の商品としての太鼓と芸術品としての太鼓を分けて生産する匠人として、主に製作している品目は、ジュルブク(セギブクとも言う)、ゴジャンブク(時調及びパンソリ用)、そしてミリャンブク(シャーマン、呪術師が使用)であるが、他の種類の太鼓も製作できます。 1988年ソウル国際オリンピックの開幕イベントに使用された龍鼓と大韓民国大統領官邸にある龍鼓も彼の作品です。

The Craftsman of Instruments (Putting on a drumhead)

七星堂支石墓群(文化財資料32号)

七星堂支石墓群(文化財資料32号) 儒城の鎭岑(ジンジャム)に向かって行くと、道路沿い右側に町が現れる。小さい原っぱを眺めて野山を後にした町が七星デンイ(或いはチルソンダン)とも呼ばれる校村洞3通です。 この村の裏山には、7つの石が置かれています。標高70mの低い野山にある、この岩が「七星堂(チルソンダン)支石墓」です。7基の支石墓は15X20mの面積の中であちこちに散らばっています。この支石墓の長さは小さいのは1m程度、大きいのは7m程度、さまざまです。周りは松の森になっています。まるで小さな公園に大きな椅子のある休憩所のように小さくて綺麗な風景です。

18면-칠성당

杞城館(文化財資料29号)

杞城館(文化財資料29号) 鎭岑洞住民センターのフェンスの中には「杞城(キソン)館」という扁額の掛けられた小じんまりとした古い建物があります。この建物は朝鮮時代に鎮岑県の行政事務を引き受けた官衙内のいくつかの建物の中の一つです。もともと校村洞にあったものを1934年頃、今の場所に移築しました。 「輿地図書」という文献によると、この建物は実際に使用されていた朝鮮時代には鎮岑県の官衙として杞城館に他に、客舎と内衙が6間、中門の3間、外門3間があり、外東軒8間、官庁3間、軍器庫3間、火薬庫1間など、多くの建物があったようです。 杞城館は東を向いていて、正面4間、側面2間の規模、軒先の垂木が一段の入母屋造りになっています。 構造はドムボンジュ(自然)礎石に円形の柱を立てた後、大きな大梁をかけて屋根の枠を作りました。建築様式は、無出目の初翼工の系統です。 遺産や遺跡のほとんどが博物館や名山にあるので見に行くにも大変ですが、杞城館は住民センターの中にあるので生活の中で歴史を感じられます。

기성관

水雲教石種(文化財資料13号)

水雲教石種(文化財資料13号) 「水雲教(スウンギョ)石種」は横になった牛、あるいはカエルの形に似ている石で、叩くと鉄の音がして別名は石鼓とも呼ばれています。スウンギョ(水雲教)創立後まもなくのある年の夏、保寧郡嵋山面黄龍里に住んでいた宋石虎(ソン・ソクホ)は夢を見ました。 石鼓がある場所と形状が見えて「私をスウンギョ(水雲教)まで導いてほしい」とお願いをする夢でした。宋さんはその夢を無視したものの、その次の夜も同じ夢を見ました。不思議に思うだけでした。 すると3日目の夜、再び昨夜と同じ夢で「私のお願いをきかなければ大きな殃禍を免れない」と脅威的な声も聞こえてきました。怪しいと思った宋さんがその場所に行ってみたところ、まさに夢の中で見た奇妙な岩がありました。 石で打ってみたら不思議なことに鉄の音がするので、宋氏は水雲教祖を訪ねて、このことを言いました。水雲教祖はその石を持ってくるように言いました。 このようにして石鼓を運び始めたところ、山の主が現れて「石の値を払え」と言いました。仕方なくお金を渡して持ち運んていたら、途中で保寧警察署に押収されてしまった。この石鐘は、紆余曲折を経てやっと水雲教に移されました。 この石鐘を天壇の横に置いて、訪れる人々は小さな石で叩いて鉄の音を聞くことができました。叩く部位によって少しずつ異なる鉄の音を出すこの石鐘は、世界の平和と宗教統一の日を告げ知らせるときに大きく鳴るという伝説があります。

수운교 석종

金槃(ギム・バン)金益兼(ギム・イクギョム)の墓及び碑(文化財資料7号)

金槃(ギム・バン)金益兼(ギム・イクギョム)の墓及び碑(文化財資料7号) 田民洞のエキスポ交差点からサムスン・プルンアパートを過ぎると、右に丸太の家があり、その上の山には数十基の墳墓があります。この山は光山金氏一族の山として国から下賜された土地です。 朝鮮時代にはこの近くに田民駅が設置されていました。 光山金氏一族の墓の中で大田市文化財資料と指定されたのが、 金槃(ギム・バン)の墓と神道碑であります。 金槃(ギム・バン)の墓の周りには上石、文人石、墓石、神道碑などがあります。墳丘の直径は8m、高さは2.2m、前には12mのジャンデソク(長臺石)が置かれ、墓地を造成しています。墓の左前の神道碑の文はキム・サンホン(淸陰・金尙憲)先生によって作られ、文字はソン・ジュンギル先生によって書かれて、玄宗2年(1661年)に建てられたものです。また中央には上石を置いて、左右には文人石が配置、荘重な雰囲気を感じさせます。 墓の真下には光山金氏一族の帝室があり、年に一度の子孫たちが集まって彼を追悼する祭祀(チェサ)を行う。金槃(ギム・バン1580-1640)は、仁祖(1623-1649)の時代の忠臣であり、大学者でもあります。

19면-김반의묘

鎭岑鄕校 大成殿 (文化財資料6号)

鎭岑鄕校 大成殿 (文化財資料6号) 朝鮮時代の儒教理念は国家と社会を支え発展させた中心でした。このような儒教の理念を教育し、儒林(儒者の仲間)の精神的支柱として耐えたのが「郷校」です。 特に儒学の故郷として知られていた忠清道で懐徳郷校と共に大田近くの儒学の産室だったのが「鎭岑(ジンジャム)郷校」です。 太宗5年(1405年)に創建された鎭岑(ジンジャム)郷校は、大成殿と明倫堂、東西両斎などの建物で構成されています。外三門の内側の両側に東西両斎が向かい合わせに配置され、内側に学問を教えた明倫堂があります。 また明倫堂後ろの内三門を通って入ると、高地に大聖堂が位置しています。この中で大成殿は重ね軒の切妻屋根でできて、端雅で素朴な味をを感じさせます。

Daeseongjeon Hall of Jinjamhyanggyo Confucian School

グンドン遺跡(記念物39号)

グンドン遺跡(記念物39号) 忠南(チュンナム)大学の正門の横にある山には、青銅器時代から百済時代にかけた遺跡があります。この遺跡は1999年忠南大学校博物館の発掘調査で明らかになりました。 ここで確認された遺構から青銅器時代の住居の址が13基、初期鉄器時代の土壙墓が1基、原三国時代の土壙墓が16基、百済時代の甕棺墓が1基、横穴式の石式墓が3基、石槨墓が28基などが見つかっています。

老隠洞遺跡(記念物38号)

老隠洞遺跡(記念物38号) 「老隠洞(ノウンドン)遺跡」は老隠1地区に関する宅地開発工事中に発見された遺跡です。これにより実施した事前調査の結果、2箇所で青銅器時代及び原三国時代の遺跡が確認されました。この中の1箇所については1997年10〜11月の間に調査が実施された結果、青銅器時代の竪穴住居の址が1基、朝鮮時代の建物址などが確認されました。

構成洞遺跡(記念物第37号)

構成洞遺跡(記念物第37号) 大田(テジョン)地方気象庁を建てる際に、青銅器時代と原三国時代の家址や土壙墓、甕棺墓、貯蔵孔などが発見されました。青銅器時代の家址は、四角い家址2基、ソングクリ(松菊里)型の円形の家址が8基です。ここでは無文土器、マジェ石機、丹塗磨硏土器などが出土されました。家址の形態と出土された遺物から見て、青銅器時代の中期(BC6-4世紀)に該当します。

崇賢書院址(記念物27号)

崇賢書院址(記念物27号) 院村洞は、通常「書院マウル」と呼ばれています。これは、ここに「崇賢(シュンヒョン)書院」があったことから由来した地名です。 崇賢書院の前身は懐徳の忠誠志士であるキム・ジョン(金淨)、ジョン・グァンピル(鄭光弼)、ソン・インス(宋麟寿)など3人を祀る祠堂でした。 この祠堂が正確にいつ創建されたのかわかりません。しかし死期が最も遅かったソン・インスの逝去を基準として、16世紀後半に創建されたものと推定しています。この祠堂は壬辰乱(豊臣秀吉が引き起こした文禄の役)の時に焼失し、1609年にソン・ナムスが儒生たちと共に建て直し、三賢書院と名づけました。同年、朝廷に請願して「崇賢書院」になりました。

숭현서원

蘇文山城(記念物23号)

蘇文山城(記念物23号) 儒城の九卽を通って燕岐郡錦南面の方面に行くと、大田市と燕岐郡の境界地域である儒城区新洞が現れます。新洞のソクゴル部落の北、海抜200mの山の頂上にある山城が「蘇文(ソムン)山城」です。山城は百済時代の代表的な築城法であるテムェ式(包谷式)で積んであります。城の平面型はほぼ円形に近く、城の周りは約350mほどでテムェ式山城の中では比較的に小規模です。 この山城は大田(テジョン)の方から流れている甲川地域とシンタンジン(新灘津)を通った金江本流地域を守る役割を果たしたと思われます。すなわち一帯の陸路と水路を防御し、近くの赤鰲山城、案山山城などとも同じ役割をしたと推定されます。

城北山城(記念物18号)

城北山城(記念物18号) 元內洞から校村洞を通って山道に沿ってソンブク(城北)洞の町の方に行くとソンジェ・コゲ(峠)の南に山城の址が現れます。これが「城北(ソンブク)山城」です。 標高230mにあるこの山城の形態は、テムェ式(包谷式)です。石を積んだこの山城の周りは約450m程度です。しかし、ほとんどの石垣は崩れてしまい原型を探りにくく、北壁の一部が比較的良好な状態で残っているだけです。門址は東北の壁の角にあり、山の頂上まで行けるところと、北壁の中間に位置するところにあります。東壁と南壁はすべて自然の地形をそのまま利用しながら削土方法で造成したもので、今では確認しづらいほど壊れています。城内では、格子柄や波状模様などを刻み入れた硬質土器と瓦の破片などが見つかりました。

赤鰲山城(記念物13号)

赤鰲山城(記念物13号) 「赤鰲(ジョクオ)山城」は大徳研究団地のエネルギー研究所の西南にある標高255mのジョゴ山の頂部にあります。テムェ式(包谷式)で築造されたこの城の城壁は、山の自然の地形を最大限に利用して築城されています。

案山山城(記念物16号)

案山山城(記念物16号) 儒城区案山洞と公州市盤浦面の間にあるコジョ山の石で築いた城が「案山(アンサン)山城」です。この山城下の西にはヨンス(龍水)川が流れていて、城の高いところでは大田と鸟致院を結ぶ国道と孔岩一帯が見渡せるところです。 地理的に見ると過去の交通の要衝であったため、戦略的に重要であると判断されて城が築かれました。 特に近くの赤鰲山城、九城山城、蘇文山城など並んで軍事要衝地域だったと推定されます。城の内部から百済時代の土器片と瓦の片が出土されました。山城の築造形態と築造方法を調べたところ、百済時代に築かれたものと推定されます。

九城山城(記念物6号)

九城山城(記念物6号) 「クソン(九城)山城」は、百済時代(BC18〜 AD660)の遺跡の一つです。九城山城は土城で、馬の鞍のように中央部分が少しへこんだ楕円形をしています。 城内にはいくつかの建物があったと思われ、建物の用途は倉庫あるいは特定の用途に使われたようです。総合的に判断してみると、九城山城は軍事目的というよりは住民の保護のために使われたようです。 山城とその近くで様々な種類の遺物が発掘され、その中には青銅器時代の文武土器、百済時代、高麗時代(918〜1392)および朝鮮時代(1392〜1910)の磁器破片が発掘されました。

金益熙の墓(記念物5号)

金益熙の墓(記念物5号) ここは朝鮮時代(1392〜1910)の人物、金益熙(キム・イクヒ1610〜1654)の墓です。墓地には石碑と神道碑、齋室があります。彼は当時の大儒学者であった金長生(キム・ジャンセン)の孫です。キム・イクヒは1633年以前に科挙と言う試験に合格し、1636年の中国の侵略にあったとき中国との平和協定に反対し、南漢山城で中国軍と最後まで戦いました。 孝宗の時代には判書となり、死後、領議政に推戴され「文正公」と諡号が下されました。墓の傍には神道碑があり、ソン・シヨル(宋時烈)が詩を書き、文字はキム・ジンギュとギム・シスプが書きました。

內洞里支石墓(記念物3号)

內洞里支石墓(記念物3号) 元內洞支石墓は青銅器時代に造成された支石墓です。 元內洞を含むジンジャム一帯は低い丘と小さな川があちこちを流れ、古くから人々が住んでいたと思われます。その証拠が元內(ウォンネ)洞とデジョン洞・校村洞などに散在する13基の支石墓です。 元內洞支石墓を現在の位置に移動させるときに、馬蹄石矢じりと無文土器が発掘されました。また大井廟(ハンオムル)にも3.2m×1.8mの大きさの支石墓があり、近くのウォンダン村のコゲッマル石積みの向かいに2.5m×2.3mの四角形に近い支石墓があります。 このような支石墓の分布から見ると、ジンジャムの一帯は青銅器時代でも重要な住居地であったことがわかります。

水雲教・兜率天(有形文化財第28号)

水雲教・兜率天(有形文化財第28号) 儒城区秋木洞にある「スウンギョ(水雲教)天壇」は1929年4月15日に創建された木造の建物です。この建物は景福宮を建てたチェ・ウォンシクによって建てられました。 天壇を建てた建築術は、朝鮮時代の建築をよく示しています。全体的に天壇の建物(ドソルチョン)と広德門(出入口)、六角に仕立てた鐘閣など3棟になっています。 スウンギョ(水雲教)の象徴的存在である天壇は、シンプルに飾られた庭園の中の高い段上にあります。庭園の周りには高くない塀が張りめぐらされ、東西南北の四方に門があります。正面の一番大きな扉が広德門です。 57坪の天壇の建物には、12頭の大きな龍と、44頭の小さい龍、88羽の鳳凰の姿が彫られています。建物の中には北壁にアンウォル聖神の彫刻、東には金剛塔、西には無量壽塔がそれぞれ木造6階に金箔されています。また、4面に仏菩薩・仙官・星君・四天王の彫刻が、西壁には童眞菩薩の幀画があって、宗教的な雰囲気を漂わせています。また、組子に彫刻された鬼の模様と、軒下の五色の丹靑は寺院とよく似ています。 屋根には宮廷と王室の建築物のみに使われた十二支神像を配置して、この建物の威厳を強調しています。

수운교 천단

石造菩薩立像(有形文化財第5号)

石造菩薩立像(有形文化財第5号) 貯水池からソンブク(城北)洞の森林浴場の方面に行くと、ボンソ(鳳巣)寺という寺の入口が現れます。ボンソ(鳳巣)寺にある「石造菩薩立像」は高麗時代から朝鮮時代の間に作られたもので、地中に埋められていたものが1935年に発見されました。この石造菩薩立像の彫刻方法は平面的で顔と身体の比例が合っておらず土俗的な感じを与えます。高麗時代以降に忠清道地域で平たい花崗岩を用いて像を刻んだものです。像は南東の方角を見つめて立っていて、頭には高い寶冠をかぶっています。

봉소사 석조보살입상